序章:チップ枚数を超えた視点へ
想像してみてください。大規模トーナメントのファイナルテーブル。超攻撃的で知られるチップリーダーがオールイン。あなたのハンドは A-Q。キャッシュゲームなら即コールでしょう。しかし今は莫大なペイジャンプが懸かり、あなたのトーナメントライフは綱渡り、しかもショートスタックがブラインドで削られそうな場面。本当にコールすべきでしょうか?この一手は数万ドルの価値を持ち得ます。答えは単なるチップ量ではなく、アマチュアとプロを分ける概念――ICM(Independent Chip Model)にあります。
ICM は 1987 年に Mason Malmuth によってポーカー界に紹介された数理モデルで、現代トーナメント戦略の礎です。役割は明確――あなたのスタックを実際の金銭価値に翻訳すること。本ガイドでは理論の分解、実計算の手順、実戦で使える調整法まで、意思決定と長期収益を根本から高めるロードマップを提供します。
Section 1: ICM とは?トーナメントポーカーの中核原理
ICM の定義:チップとキャッシュをつなぐ橋
- Independent Chip Model(ICM)は、残りプレイヤー全員のスタックとペイアウト構造を用いて、各人が各入賞順位(1位、2位、3位…)で終える確率を算出し、トーナメント・エクイティ($EV)に換算する枠組みです。
これはトーナメント特有の概念です。キャッシュではチップ価値は線形で、$500 のチップは常に $500。しかしトーナメントではそうではありません。ICM を理解すると、任意の時点で自分のチップがいくらの実マネー価値かを把握でき、正しいリスク/リワード判断に不可欠です。
ゴールデンルール:チップはお金ではない/価値は線形ではない
トーナメントで最重要の概念はチップ価値の非線形性です。例:$10 の Sit & Go で開始スタック 1,000 点は名目上 $10。インマネ($20 保証)に到達し同じ 1,000 点でも、その価値は少なくとも $20。優勝($50)して全 10,000 点を持っているとき、1,000 点あたりの価値は $5 に薄まります。同じ点数でも金銭価値は局面で大きく変動します。
逓減限界効用:なぜスタックが増えるほど価値は薄まるのか
非線形の根拠は逓減限界効用。最初の 1 点は「生存」を担保するため最も価値が高い。以後、1 点増えるごとに価値はわずかに低下します。ゆえに鉄則:スタックを倍にしても、実マネーの $EV は倍にならない。
例:9-man Sit & Go で 1,500→3,000 に倍増しても、トーナメントエクイティは 11.1%→20.3%(+83%)にとどまることがある。後半に行くほどこの増分はさらに縮みます。つまり無理に増やすより守ることがしばしば高収益です。
cEV と $EV:意思決定の二重フィルター
実戦で重要なのは二つの期待値です。
- cEV(Chip EV):
そのアクションの平均チップ増減。キャッシュでの主指標。 - $EV(Monetary EV):
そのアクションの平均金銭増減。トーナメントで本当に見るべき値で、ICM がこれを算出。
チップ価値が非線形なため、+cEV だが −$EVのラインが生まれます。トーナメントライフを賭けたコインフリップは cEV でトントンでも、$EV では大幅マイナスになり得ます。序盤のオールインでは $10 のバイイン全損リスクに対し、得られる $EV 増分が $6.67 程度ということも。ICM はペイアウトを取り込み、**「チップを増やす直感」より「エクイティを守る論理」**を優先させます。
Section 2: ICM の仕組み:スタックはどうやって金額に変わるか
計算の考え方
ICM は腕前を予測しません。前提はシンプル――1位になる確率 ≒ 総チップに占める自分の割合。2位、3位…は「誰が1位か」の全シナリオを順に想定し、その都度残りのゲームでの順位確率を再計算、重み付け合算します。最後に、各順位確率 × その順位の賞金を合計して総 $EVを得ます。
実例:3 人残りの分解
- 状況:3 人残り。配分 1位=$7、2位=$3、3位=$0
- スタック:A=5(50%)、B=3(30%)、C=2(20%)合計10
Step 1:1位の $EV(単純に比率)
- A:0.50×$7=$3.50
- B:0.30×$7=$2.10
- C:0.20×$7=$1.40
Step 2:2位シナリオ(各 1位シナリオで 2 位確率を計算)
- A が 1 位(50%):B 対 C。B の 2 位確率 = 3/(3+2)=60%、C=40%
- B が 1 位(30%):A 対 C。A=5/(5+2)=71.4%、C=28.6%
- C が 1 位(20%):A 対 B。A=5/(5+3)=62.5%、B=37.5%
Step 3:2位の総確率の合成(重み付け合算)
- A:0.30×0.714 + 0.20×0.625 = 0.3392(33.92%)→ $EV:0.3392×$3 ≈ $1.02
- B:0.50×0.60 + 0.20×0.375 = 0.375(37.5%)→ $EV:0.375×$3 = $1.125
- C:0.50×0.40 + 0.30×0.286 = 0.2858(28.58%)→ $EV:0.2858×$3 ≈ $0.86
Step 4:総 $EV
- A:$3.50 + $1.02 = $4.52
- B:$2.10 + $1.125 = $3.23
- C:$1.40 + $0.86 = $2.26
ICM ツールが必須な理由
3 人でも手計算は面倒で、人数が増えると実戦での暗算は不可能です。真剣に取り組むならICM 計算機/ソルバーでオフテーブル学習を行い、直感を養う必要があります。計算が示すのは、各人の $EV が互いに密接に連動していること。極端なショートは重力井戸のように周囲の戦略を歪めます。ミドル同士のオールインは、ショートの存在を踏まえフォールドで上位入賞確率を高める選択がしばしば妥当です。これこそ ICM の妙味です。
Section 3: スタック別の戦略調整
ICM は卓上に非線形の力学を生みます。ビッグとショートが相対的に自由度が高く、ミドルが最も拘束されます。単純な序列ではなく「捕食者―被食者」モデルに近い構図です。
ビッグスタック:プレッシャーで稼ぐ
ビッグは ICM プレッシャーが最小。小さなポットを落としても上位フィニッシュ率は大きく崩れません。主戦略は最大限の圧力、特にミドルへの圧迫です。
- 戦術:ファーストインを広げる、3bet/シャブの頻度を上げる、「ラダー狙い」の相手のブラインドを襲う。ミドルは飛びを恐れてフォールドしやすい局面を作る。
ミドルスタック:最も傷つきやすい帯
ミドルは ICM プレッシャーが最大。守るべき $EV は大きいが、緩衝は少ない。ショートが飛ぶ前に落ちるのが最悪です。
- 戦術:全体にタイト、ハイバリアンスな境界スポットを避ける、リーダーとの大衝突を回避。まずはスタック保全、ショートのアウトでペイジャンプを待つ。
ショートスタック:計算されたアグレッション
ディープ以降や FT では、ショートの ICM プレッシャーは意外と小さい。失うものが少なく、現状の $EV も低いため、まずは倍増が目標。
- 戦術:プッシュ/フォールド中心。ICM でミドル・ビッグのコールレンジが締まるため、オールインのフォールドエクイティが高い。特にミドルには強力。
戦略サマリー
Stack Size | ICM Pressure | Primary Goal | Key Strategy | Primary Targets |
---|---|---|---|---|
Big | Low | Accumulate | Wide open / 3bet / shove | Mid stacks |
Medium | High | Survive & Ladder | Tight, avoid big clashes | Short(状況次第) |
Short | Low | Double Up | Aggressive push/fold | Blinds vs Mid/Big |
Section 4: バブルを制する――ICM 圧が最も高い局面
ICM の世界で最大のリスクはポットを失うことではなく「飛ぶこと」。ゆえに、しばしばハンドに関与していない第三者のスタックが、あなたの行動を決めます。
ソフトバブルからハードバブルへ
ソフトバブル(インマネが近づく段階)から ICM 圧は顕著に上昇。
ハードバブル(あと 1 人飛べば全員 ITM)で最高潮。分析では、cEV 基準で標準オープンのハンドが、ICM だと 100 人以上前から純フォールドになることも示されます。
“Bubble Factor”:圧力を数値化
Bubble Factor は ICM 圧を表す指標で、「飛んだときに失う $EV ÷ 倍増で得る $EV」。
1.0 は cEV 的な状況(ICM 圧なし)。2.0 は失う損失が得る利益の 2 倍で、キャッシュより2 倍慎重であるべきという意味。スタック構造・ペイアウト・局面で変動します。
実戦:ICM はポットオッズを凌駕する
バブルでは、標準的なポットオッズは危険な誤誘導になり得ます。
判断は**チップではなく金銭の期待値($EV)**で。
Example 1
あなたは BB、健全なスタック。SB のビッグスタック(超アグレ)が約 80% のレンジでオールイン。
ポットオッズ上は 40–45% あればコールできそう。
しかし ICM 計算では、フォールドなら $101、コール時は**$159 を得るか $0 で飛ぶかに期待が二分。 結果、利益コールに必要な勝率は64%**。トップ約 6% のプレミアム以外はフォールドが正解。
Example 2
関与していないショートの存在が、最適解を大きく変える例。
- ヒーロー:BB 2,000
- SB:2,000 でオールイン
- ヒーローのハンドは SB レンジに 60%
- さらにテーブルに 1,000 のショートがいる
cEV ではプラスのコールだが、ICM では:
- フォールドの $EV = $24.33
- コールの期待 $EV = $21.86
- よって、フォールドの方が 2 ドル以上有利(有利なコインフリップでも!)
Decision | Chip Outcome | $EV Result |
---|---|---|
Fold | ブラインド支払い後に 2,000 を維持 | $24.33 |
Call | 60% → 4,000/40% → 0、平均 +400(+cEV) | $21.86(–$EV) |
計算式:(0.60 × 36.44) + (0.40 × 0) = 21.86
結論:統計上は優位でも、ICM ではフォールドが $2 以上良い。
ICM はチップ基準の常識を上書きし、生存が短期のチップ獲得を上回ることを示します。
マネーバブル vs. FT バブル
- マネーバブル:
最優先は生存(ミンキャッシュ確保)。ショートは極端な ICM 圧に晒され、超タイトに。
- ファイナルテーブル(FT)バブル:
ミンキャッシュは確定、以後のペイジャンプが巨大。目的は上位賞金に届くためのスタック構築へ。ショートは最も ICM 圧が小さくなり、倍増を狙ってリスクテイクが推奨される一方、ミドル・ビッグは巨大ペイジャンプの圧で慎重に。
Section 5: ファイナルテーブル――勝ちを最大化する
FT では、あなたのスタックは武器であると同時に、他者が飛ぶたびに「利子」を生む資産でもあります。したがって戦略はしばしば資産運用に似ます――高リスク高リターンより元本保全を優先。
巨大なペイジャンプを乗りこなす
ICM の影響は FT で最も強く、経済的インパクトも最大。5 位と 4 位の差が 9 位の総額より大きいことも。FT バブルでピークに達し、上位少数まで高止まり。次の梯子を登る確率を損なう行動は避ける。特にミドルは他者のぶつかり合いを待つのがしばしば最善です。
ICM と Push/Fold
標準の push/fold チャート(cEV 基準)は FT では不十分。ICM 調整が必要。
- ビッグ:ミドル相手に、チャートより広くプッシュ可能。
- ミドル:コールは大幅にタイトに、CL との大衝突は特に警戒。
- ショート:倍増が必要だが、他にもショートがいるならややタイトになり、より良い現場を待つ局面も。
最新の ICM ソルバーは、$EV 最大化のための多変量 push/foldを生成します。
ディールの作法:ICM チョップ
FT の公正なディール(chop)の標準は ICM。残賞金に対する各プレイヤーの現時点の金銭的エクイティを客観的に提示します。変動を抑えたいときに有効。腕に自信があるなら ICM 以上を主張するのも一手です。
例:残り 4 人、賞金総額 $1,000。単純なチップ割合配分(chip chop)は逓減価値を無視し不公正。ICM は短スタックにも上位入賞の余地を反映します。
Player | Chip Stack | % of Chips | Chip Chop (Incorrect) | ICM Equity (Correct) |
---|---|---|---|---|
Player 1 | 6,000 | 60.0% | $600.00 | $404.74 |
Player 2 | 2,000 | 20.0% | $200.00 | $263.39 |
Player 3 | 1,200 | 12.0% | $120.00 | $194.29 |
Player 4 | 800 | 8.0% | $80.00 | $137.58 |
Total | 10,000 | 100% | $1,000.00 | $1,000.00 |
Section 6: 完璧なモデルにも限界はある
ICM に見えないもの
ICM は強力ですが、ポーカーそのものではありません。真空中のスナップショットであり、現実の多くを無視します。上級者は ICM を基準に、状況で調整します。
- スキル差:
全員同レベルを仮定。自分が強ければ真の $EV は ICM より上。ICM ディールを断る根拠にも。 - ポジション:
スタック配置に対する自座の位置関係を考慮しない。 - 将来ゲーム&ブラインド:
静止画であり、ブラインド上昇や将来のチップ圧を未反映。 - テーブルダイナミクス:
固有の傾向、対立の履歴、メタゲームは非考慮。 - CL のレバレッジ:
ショーダウン不要で多くを刈り取る CL の真価を過小評価し得る。
指南としての ICM、教条ではない
だからこそ ICM は出発点。スキル差があるなら ICM 超えを主張すべき場面も。真の技術は、ICM に従うべき時と現実要因で外す時の見極めです。
さらに第二層の戦略:相手の ICM 理解を逆手に取る。
全員が cEV しか見ていないなら、ICM よりもタイトにして彼らをぶつけ合せる。
逆に相手が ICM を機械的に当てはめるだけなら、計算されたアグレッションで咎める。
結論:次のトーナメントに向けた要点
ICM はディールの道具以上に、トーナメントを考える枠組みです。短期のチップ獲得から、利益最大化へと視点を転換させます。これを内面化することは、**「上手い」から「勝てる」**への大きな一歩です。
実行サマリー
- 得たチップの価値 < 失うチップの損失:生存が最優先。
- 生存そのものが金を生む:誰かが飛ぶたびにあなたの $EV は増える。フォールドが最善手のことは多い。
- 自分の役割を特定:Big(捕食者)/Medium(被圧迫)/Short(攻撃的生存者)。戦略はここから分岐。
- バブルでは規律が命:数学を信じ、苦しいフォールドを。ICM はポットオッズに優先。
- Push/Fold を極め、ICM で微調整:標準ショート戦略を学び、FT での歪みを理解。
- オフテーブルで学ぶ:頭の中で ICM は解けない。ツールで復習し直感を育てる。
よくある質問(FAQ)
ICM が最も重要なのはいつ?
ソフトバブルから影響が出始め、ハードバブルと FT バブルでピーク。巨大なペイジャンプがある FT 全体でも極めて重要です。
ICM 数字に基づくディールを常に受けるべき?
そうとは限りません。ICM は公正な基準ですが、明確なスキルエッジがあるならICM 以上を交渉すべきです。
ICM チョップとチップチョップの違いは?
チップチョップはチップ割合で分配するだけで逓減価値を無視。ICM チョップは各順位確率 × 賞金で真の金銭エクイティを配分する業界標準です。
実戦でなく ICM を練習するには?
ICM 計算ツールで多様なシナリオを回す。自分のハンド履歴、とくにバブルと FT を復習。ICM クイズやシミュレータも有効。
バブルのショートでも A-A をフォールドすべき場面はある?
極めて稀ですがあり得ます。特にサテライト(賞金が同額)では、誰かが先に飛ぶ見込みが高いなら、生存保証が倍増の利益より価値が高いことがあります。巨大な優位(A-A)でも、コールが −$EV になる典型例です。